赤穂浪士と下平間
2001年11月22日(木)

本多 和(ほんだ かず)
1948(昭和23) 称名寺に生まれる。1970(〃45) 大谷大学真宗学科卒業1973(〃48)〜1981(昭和56)真宗大谷派教学研究所東京分室勤務以後称名寺に勤務1996(平成8)6月 称名寺住職に就任「称名寺と赤穂義士」という題で、お話させていただくことになりました。もうすでに赤穂浪士の吉良邸討ち入り、松の廊下の事件等については、映画・テレビや本などで紹介されたりしておりますので、全体については十分ご了解の事と思いますので、特に〈川崎と下平間村〉をポイントにお話させていただきたいと思います。


 お配りしました資料の年表を見ていただきます。いわゆる江戸城の松の廊下の刃傷事件が1701年(元禄14年)3月14日に起こります。時刻は午前11時ごろと云われています。幕府の裁定により吉良上野介を切りつけた浅野内匠頭は、その日の夕刻に切腹、同時に三つあった赤穂藩の江戸屋敷は全部没収(明け渡し)という事になります。この事件に端を発し、翌年の元禄15年12月14日〜15日にかけて赤穂浪士の復讐事件(吉良邸討ち入り)があり、翌年の元禄16年2月4日に大石良雄ら赤穂浪士47人が切腹ということになります。よく大石良雄(ヨシオ)といわれますが、ヨシタカが正式な読み方です。


 それで赤穂浪士と下平間村との関係について19ですが、年表の中の「大石内蔵助より花岳寺ほかへ送る暇乞いの状」という箇所をご覧下さい。これは赤穂の正福寺に現存するものですけれど、この『暇乞いの状』という書状が吉良邸討ち入りの前日に花岳寺(赤穂藩主浅野家の菩提寺)・正福寺・神護寺の三者宛てに発信されております。この書状の中に「鎌倉に立ち寄り五、六日逗留、それより川崎近所平間村と申所に在宅申し、その後江戸に入ったという」事が記されています。この書状が現存しておりますので、鎌倉から平間村に立ち寄って江戸に入ったということは史実的にも明らかです。


 刃傷事件後、赤穂藩家老であった大石良雄は、藩の再興、内匠頭の弟大学の藩主擁立の為に奔走しますが幕府はその願いを聞き入れる事はありませんでした。その為大石は遂に討ち入りを決意し(元禄15/7・京都円山会議)、内蔵助一行は江戸に向かうことになります。所謂「東下り」といわれていますが元禄15年の10月7日に京都を出発して、同23日に鎌倉に到着し、25日に鎌倉を発って川崎宿に一泊し、翌26日に平間村に着き、11月5日に平間村を発って、江戸の旅籠小山屋に到着します。


 次に内蔵助一行がなぜ平間村に立ち寄ったのかという事ですが、年表の1702年(元禄15年)の7月の箇所を見ていただきます。下平間村軽部五兵衛宅敷地内に赤穂浪士寓居を上平間村の大工渡辺喜右衛門により建築とあります(元禄14年説もある)。その寓居には四十七士の一人であった富森助右衛門が主に住んでいたと云われています。立ち寄った理由を考える時、軽部五兵衛という人が大事のポイントになります。大工渡辺家は現在も建設業をしておりますが(南武線平間駅脇)敷地内には「銚子塚」といわれる平成13年11月22日(木)称名寺住職 本多 和史跡があります。


 軽部五兵衛と赤穂浪士の関係ですが、元禄14年の刃傷事件以前から、軽部五兵衛は江戸の赤穂藩とは繋がりがありました。江戸赤穂藩の上屋敷があったのは、鉄砲洲という場所で、現在の築地聖路加病院のあるところですが、五兵衛はその上屋敷に出かけては屋敷内から出た下肥をもらっていたということがありました。当時の下平間村では農業が中心であり、そのための肥料を江戸屋敷に取りに行き、下平間村からは牛馬の飼料である秣(まぐさ)を納めていたわけです。下肥は農業をするものに取っては大切な肥料です。先の昭和の大戦後もしばらく農家では人の集まる都市に農作物の肥料となる人糞を集めに行く事は続いておりました。都市は肥料の集積場であったわけです。


 こうした交流があり、五兵衛は江戸屋敷の堀部弥兵衛(安兵衛の義父)・大高源吾・富森助右衛門とは特に親しい間柄であったといわれております。軽部五兵衛という名前は、村落史の資料に出ており、当時の資料を見ると「橘郡下平間村年寄五兵衛」という記述が出てきます。当時の下平間村は、推定ですが民家が20戸位であり、ほとんど農業を主としていたようです。


 このように刃傷事件以前からのつきあいがあった五兵衛はこの事件が起こると堀部弥兵衛から連絡を受け、すぐに馬・荷車・人夫を用意し鉄砲洲の上屋敷に駆けつけたとのことです。


 藩主浅野匠頭上が切腹した後、即刻赤穂藩の江戸上屋敷・下屋敷は明け渡しという事となり、屋敷内の片付けには大変な労力を必要としたわけです。屋敷内の全ての道具などを一両日中に片付けなければならないわけです。ちなみに鉄砲洲上屋敷は、敷地坪数は9000坪・その中に建坪3200坪くらいの建物が建っておりました。


 刃傷事件・藩主切腹・江戸屋敷明け渡しの後、赤穂藩の家臣は散り散りになります。赤穂に帰る者もあり、又、そのまま江戸に残る者もあります。藩士は路頭に迷うこととなりますが、その中にあって軽部五兵衛と赤穂藩士との交流20はそのまま続きます。江戸屋敷を引き払った後、浪士達は五兵衛を頼って平間に出かけては談合・酒飯を楽しむ事が続きます。そのうち浪士の1人である富森助右衛門らの発案により、軽部五兵衛の敷地内に寓居(仮宅)を建てる事となり、主に富森助右衛門が住むということになります。


 浅野内匠頭が刃傷事件を起こした日は、京都御所からの勅使が、将軍に挨拶するために登城する日で、この時、浅野内匠頭は勅使の接待役である「勅使饗応役」という役職についておりました。富森は藩主内匠頭とともに、品川で勅使を出迎えたりするなど饗応役の仕事についていた人です。刃傷事件の後は屋敷明け渡しの中心として後始末をしていますが、赤穂には帰らず江戸に留まり、平間村の五兵衛宅などを行き来していたということです。こういう経緯があって大石内藏助一行は鎌倉を発った後、平間村の軽部家敷地内の寓居に立ち寄る事になります。10日乃至2週間と言われておりますが、平間村に10月26日に到着し11月10日までの間、大石一行は逗留することとなります。この逗留期間に既に討ち入り準備のため江戸に住んでいた浪士たちとの情報の交換や、江戸入りに向けての諸準備などをしていたわけです。


 この平間村滞在中に、大石は江戸に潜入していた同士宛の「討ち入り十ヶ条の訓令」を起草しております。この訓令は討ち入りの時の決め事です。この平間村で第1回目の起草をし、あと2回ほど訓令が作成されますが、最初の訓令が平間村滞在中に書かれています。この訓令の内容を紹介させていただきます。


 討ち入り時の装束についてはどうするのか、有名な火事装束ですが、黒い小袖を用いるとか、帯の結び目、下帯はどう結ぶのか、ももしき、草鞋についての注意。又、武器についてですが、自由に各自が武器を用いてはいいが、槍とか弓を用いる時は申し出よとか、あるいは討ち入りの心掛けとして、江戸に到着したら武器は一ヶ所にまとめておくこと。抜け駆けを厳禁する。それから倹約令。討ち入前の忍耐を慣用とせよ。遊興せぬように。情報を漏らさないこと。防諜ということについてです。さらに討ち入りの目差すところは上野介親子であり、この二人に目を配り、他のことに気を取られるな。ただし二人が他の者たちに紛れ込んで、討ち漏らすことがあるので、討ち入ったら、男女の区別無く、一人残さず外に逃さぬ様心がけられたい。このため当方としても屋敷内の手配を表門、裏門、親門の三ヶ所を検視する。それから吉良邸から外へ逃走することを考慮し外の人数配置もいたす。また相手方は100人を超すと思われるが、こちらは50人が決死の覚悟で一人が二人、三人を引き受けるつもりで戦えば、わが方は勝利間違い無しと内蔵助は確信している。このような内容の訓令を、江戸にすでに入っている同士宛に書状にしたため発信しております。


 何故大石一行が平間村に立ち寄ったのかという理由について、軽部五兵衛と赤穂藩士との交流の面からお話ししましたが、討ち入り前にこの平間村という場所に滞在したという事については大事な意味があったと指摘されています。ご存じのように平間村は江戸とは多摩川を挟んで隔てた場所であり、東海道からは少し離れた街道に位置します。江戸に渡れば当然監視の眼が厳しくなります。地理的には討ち入りに伴う準備をするには格好の場所であったと言われています。又、すでに江戸に入っている同士の中には即刻に上野介の首を取りたいという急進派といわれる人たちが大勢おり、大石一行の江戸入りを今か今かと待っている状況にありました。その急進派のいる江戸に入る前に一呼吸おく意味で平間村に滞在し、この滞在中に討ち入りの為の十ヶ条を起草し、江戸にいる同士に発信して、十分な確認と準備をしているなど、わずか10日間ではありますが、この期間は大事な意味があります。


 軽部五兵衛宅の場所は、称名寺の前の道と府中県道との間にあり、現在は県営住宅の敷地になっています。その軽部五兵衛宅に建てた寓居21には赤穂藩主浅野内匠頭を祀る仏間があり、命日には当時の称名寺住職、法案寺住職(どちらも浄土真宗)が招かれ仏事が営まれていたのではないかと推察されます。このような交流が討ち入り前まであった関係上浪士の遺品が称名寺に残っているのではないかと思っております。


 遺品としては、大石良雄愛用のおかめの面と書/山鹿素行の書/富森助右衛門愛藏の銚子と盃/他には浪士の書簡/日上幸川筆の「紙本着色四十七士像」などあります。四十七士像は昭和60年12月に川崎市文化財の指定を受けて入るものです。これらの遺品は毎年12月14日に一般公開しておりますので、興味のある方はおいでいただければと思います。


 遺品の中の文化財指定の四十七士像について少し紹介させていただきます。四十七士像と呼ばれていますがこの掛け軸に描かれている浪士は実際は46人で一人欠けています。欠けているのは寺坂吉右衛門という浪士です。なぜ寺坂吉右衛門が欠けているのか、これまで赤穂義士を研究する方々の中でもはっきりしておらず、今日まで論争が続いております。討ち入り直前に逃げてしまったとか、赤穂との連絡役の命を受けていて泣く泣く立ち去ったとかいう説があります。この四十七士像は、討ち入り後41年後に描かれたものですが寺坂吉右衛門は描かれておりません。この絵の上に七言律詩の讃文が墨で書かれています。文の意味は、「亡君(浅野内匠頭)と讎敵(吉良上野介)とは天をともにすることは無かった。それゆえ、仇敵吉良邸の堅き門を突き破り、仇き討って、四十七士の積もり積もった怨みの情は、はじめてはれたのだ。彼ら四十七人はつつしんで命を捨て、その誉れに満ちた名は朽ちることなく伝わり、永遠に欠けることがないだろう」という内容の文です。


 称名寺は昭和20年4月15日の川崎大空襲で全てが消失しましたが、赤穂浪士関係の遺品だけは近くの農家の土蔵に預けてあったので消失を免れました。「称名寺と赤穂義士」という事でお話しの依頼を受けましたが平間村を中心に〈軽部五兵衛〉〈富森助右衛門〉〈大工渡辺喜右衛門〉という方々を紹介しながらお話させて頂きました。時間がまいりましたので終わります。※軽部家五兵衛の墓は幸区北加瀬夢見ヶ崎公園にある菩提寺了源寺にある。※銚子塚の謂われ富森助右衛門が討ち入り前に平間村を訪れ、大工渡辺喜右衛門にこれまでの謝辞を述べ、銀の銚子を贈ったと云われる。この銚子は三々九度に使う長い柄のついた銚子のことである。討ち入りの知らせを聞いた後、銚子を土中に埋めて塚としたことで銚子塚と呼ばれている。(2001/11/22の卓話を後日、本多氏が加筆修正)