田島地域における桃栽培の変遷(桃の父、吉沢寅之助)
2002年3 月28日(木)

小泉 茂造(こいずみ しげぞう)

 地域史研究家川崎生まれの川崎育ち。NKKに41年勤務、平成14年3月31日定年退職。長島保先生と共に「川崎区史研究会」に所属、現在活躍中。共著『川崎の町名』(地名研究所発行)など多数。

 近代、川崎の果実栽培の歴史は、在来種が幕末から明治の初期の水害で消滅し、横浜の外国人や農務省の勧めによる外国種から始まった。

 外国種による桃栽培は神奈川県下では適さず、商品経済として成り立たず危ぶまれた。それを救う大発見が田島村(川崎区)にあった。吉沢寅之助の「伝十郎」桃である。以降、県下では商業ベースに乗り、梨の「長十郎」、桃の「伝十郎」とブランド名は、全国に広がり、一時代を謳歌した。さらに、寅之助は研究を重ね、早生種「橘早生」を作り出し、全国の栽培農家へ配布し普及させた。

 川崎の産業(重要農作物)として、田島の名産「伝十郎」桃の栽培の変遷を、生みの親、吉沢寅之助を通じ、育んだ時代を考える。

吉沢寅之助の年譜

文久3(1863)年2月13日 橘樹郡大島村(現=川崎区大島)農業、吉沢伝十郎長男として生まれる。
  当時の大島村【資料1】
明治23(1890)年6月 田島村大島の吉沢伝八長女トラと婚姻(27歳)
明治27(1894)年10月 吉沢伝十郎家を相続する。(31歳)
明治29(1896)年 革命的新種桃「伝十郎」を開発する。(33歳)
  後に(伝桃)と命名する。【資料2】
明治35(1901)年11月 田島海岸数10町歩を造成し、大果樹園プロジェクト始まる。(38歳)【資料3】
明治43(1910)年 「伝桃」の実生から、半ヶ月以上も早熟する理想的な品種を改良し「橘早生」と
  命名(大正4年)される(47歳)【資料4】
明治44(1911)年12月 東京深川から田島村へ移転の浅野セメント起業反対期成会を寅之助ら町村会
  議員は起こす。(48歳)【資料5】
大正3(1914)年 「伝桃」は皇太子殿下へ献納。(51歳)【資料2】
  日本鋼管の本稼働。同五年、浅野セメント稼働し農業人口減少。【資料6】
大正六(1917)年2月9日 同村大島で死亡。(54歳)同年9月30日
  大型台風高潮による大被害、大師地区で死者19人、家屋全半壊流失150戸。
  田島地区では死者6人、行方不明1人、家屋全半壊流失94戸。稲畑作収穫は
  皆無。梨棚の完全なものなし。翌年8月30日、再び台風の被害

吉沢寅之助の生まれた江戸時代の大島村は農業を生業とする地域で、磯付でありながら漁業権はなかった。勝手に魚獲し魚市場で売りさばくことは禁止されていた。

 明治維新後、代々農業であった吉沢家では現金収入の稼ぎとして農閑期の片手間に桃の栽培を手がけていた。多忙なのは7月中旬から下旬の半月のことで一家総出の仕事であったという。明治27年(1894)年、父伝十郎の跡を相続した寅之助は、桃栽培に力をいれていた。収穫期の遅い外国種は病虫害を受けやすく収穫は不安定で安定収穫できる早生種の品種改良を研究していた。

 同29(1896)年、ついに寅之助は成功したのである。それは大師河原村出来野の桜井左七氏の栽培する早生種を接木したところ早生種にはならなかったが、果実は大型で色艶よく甘味酸味を兼ね、しかも病虫害に強く樹勢もよく、土質や気温を選ばない、出荷の際の荷傷み少なく、在来種に比較にならない良質で品質が安定し商品経済として不可能とされていた時期だけに革命的とされた。これを世襲名「伝十郎」と命名した。寅之助33歳の時である。後に「伝桃」と改めた。この発見で田島は勿論、各村こぞって梨から桃へ転換し、20年後には同業組合を設立し最盛期を迎え、皇室へ献納の栄誉に浴するなど晩年、寅之助の自慢の一つであった。

 出荷場は大島八幡神社境内だけでは間に合わず追分にも設けられ、東京神田や横浜へ出荷され、苦労した荷車からトラック輸送に替え、大量輸送した。

明治35(1901)年、大島海岸10町歩を埋め立て、大果樹園造成プロジェクトが計画された。ところが、造成中に将来を見越した地主たちはこの果樹園予定地を浅野セメントへ売り渡してしまった。当時、村会議員だった寅之助たちは、村の死活問題として反対期成会を起こし田島村を遊説した。

 同43(1910)年、寅之助は、さらに伝桃を改良し、当時の常識を破った実生から早生種をつくり出した。農商務省園芸部長の恩田博士は、これを絶賛し「橘早生」と命名された。寅之助は希望する全国栽培家へ配布した。このことが現在も橘早生が品種改良をはぐくみ新種を生むベースとなっている。

 しかし、すでに工業化の波は抑えることは出来ないところまで来ていた。

 田島町大正11年町勢要覧によると、10年前にゼロにちかかった工業人口は7265人と農業人口の約倍数に、児童小学校児童数も1700人と10年前の約4倍の増加で、いかに地方出身の工場労働者が移り住んできたかが分かる。

 寅之助は大正6(1917)年2月9日、54歳で、田島村大島でこの世を去った。同年9月30日、記録的な高潮の大被害である。台風と大潮の満潮時と重なり川崎海岸地域を襲った。水害に慣れているとはいえ、果樹栽培は壊滅状態といわれ、再生したが、縮小し工業化を促進した。

 大正13年、川崎市制を施行した川崎町・御幸町・大師町は遅れている水道設備を完備した。町勢の強かった田島町は海岸に浅野セメント・日本鋼管など大企業を抱え農業と両立を図り市への合併の話に応じなかった。しかし、田島町は水道設備を持っていなかった。発展する重工業と住宅への水の供給は不可欠で急がれていた。

 ついに、昭和2(1927)年、田島も川崎市へ合併し工業用水・飲料水を確保し、益々京浜工業地帯の中核的存在を発揮し、農業は共存できなくなり地主は農地を手放さなければならない状況下で、工業化の波に飲み込まれていった。

 伝十郎・橘早生の最盛期は1869年から1917年(21年間)で、後は、工場進出で桃畑の減少と労働力の減少とがあいまって生産も減少した。大師地区に言われる降灰(公害)の被害の話は聞き取りではなかった。風が大師方面へ流れていったからだという。

 桃栽培は梨より手間ひまがかからず容易にできる所からスタートしたが、水害後、手間はかからず、高値で取引できるイチジク栽培へ切り替えた。しかし宅地化が進み維持管理ができないので断念したと、桜本地区で戦後まで続けていた吉沢家のご主人はいう。

 孫のあせもの薬にと桃の木を一本残して置いたが、次代にはマンションに変わった。

 桃栽培は梨と同じく現在多摩川の上流へ移ったが、前述のとおり橘早生は全国へ普及した。現在、私たちが、あの果肉のやわらかい甘味あるみずみずしい桃(白鳳系)の新種はみな寅之助の開発した「伝十郎」(伝桃)「橘早生」を親としているのである。したがって夏の一時期、桃を食べるときは吉沢寅之助とその時代を思い出して下されば幸いです。

 【資料1】
「海面稼仕来り書」天保13(1842)年2月一 私共村々之儀は於海面に藻草・貝類、其外仕来之小猟は落突・見突・簀引・黒古引網・海糠独相稼、田畑肥に仕、農間大小の百姓共日々海面罷出、右貝類小猟仕候て、御年貢上納諸御役、助郷人足共相勤(略)



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