大師で桃がとれた頃の話
2002年4 月4 日(木)

伊藤 桂子(いとう よしこ)

川崎大師に生まれる。大師小を経て捜真女学校卒業。「恵の本」女将思い出しますに、娘が高校生の折、ロータリークラブの皆様のお世話にて、オーストラリアのパースに1年間、交換留学生として出していただきました。現在母校にて教師をしております。その節は大変ありがとう存じます。有意義な人生経験ができたことと、心から喜んでおります。

 今日は、桃の話と言うことで、声をかけて頂きました。

 私共では、代々市兵衛を名乗り江戸時代初期より砂地が良いと言うことで桃と枇杷の栽培を多摩川の河川敷でやっておりました。その頃、築地に市場ができる前ですので、収穫期には、行季に棚を作り、桃を真綿で一つづつ包み、背中に背負って、日本橋まで卸にでかけていったそうです。前日に収穫して、朝暗い内に出発し、卸を済ませて帰ってくると、もう日がとっぷりと沈んでしまい、日帰りとしては、目一杯だった様です。

 そのうち、大八車が発明されたのですが、特に桃は「当たる」と申して傷に成りやすい為「舟が良かろう」と言うことになり、果物の港ができ、舟で運ぶことになりました。

 私の曽祖父に当たる、五代目の伊藤市兵衛と言う人が、明治のはじめに米国人が持ってきた桃と、日本従来の桃に接木をして、早稲の水密桃と言う品種を作り出しました。桃栗三年柿八年と申します通り、芽を摘まれてしまい、三年後には大師全体に水密桃ができたと言われております。

 汽笛一声、新橋を……で、新橋横浜間は明治5年に敷けてJRの始めだそうですが、大師線は京浜急行の発祥の地で、私鉄の東日本の始まりだそうです。

 明治36年に六郷の橋を渡ったところの六郷橋駅から果物の港の港町駅、味の素発祥の鈴木商店の鈴木町駅を通り、大師詣の為の終点大師駅でした。

 その後、昭和36年二宮に農林試験場ができ、県の農産物に寄与した人々を知事が内山岩太郎さんのときに表彰し直して戴きました。

 その折、大師からは、梨の品種改良をした長十郎梨の当麻さんもご一緒でした。

 先ほどの港町に戻りますが、日本コロンビアの発祥地で、美空ひばりさんの「港町十三番地」の歌がここでできたことは有名です。

 実際は九番地だったそうですが、歌いずらいということでお隣の三楽オーシャン(当時は芋焼酎を造っておりました。)現在はメルシャンの会社の住所を借りたようです。ちなみにイトーヨーカ堂は十二番地です。

 多摩川がたびたび氾濫するので、大正10年頃、当時はお国が強く河川改修になり、木1本に付三銭の補償金で伐採されました。大正十五年に跡地には川崎市が出荷していた果物(桃、枇杷、ぶどう、梨、いちじく)の5種類をモチーフにした水門が出来上がりました。

 私共では、江戸時代の始め将軍様で申しますと四代目家綱のころより(お大師様へのお参りが多くなり)採れた桃と枇杷を食べていただいたのが商売の始まりだったそうです。その後江戸前物の料理屋になりました。ご存知の通り江戸前と申しますと東京湾全体のことですが、正確には「京都から江戸に入る前」という意味で、大森、羽田、大師、子安辺りを言ったそうです。

 多摩川、鶴見川の真水が入り込み、湾の奥のほうなので、波が静かな為、魚介類が柔らかく、甘味があったため、大変おいしく、江戸前ものと言われてきました。蛸、蝦蛄、赤貝、鳥貝、青柳、穴子、蛤、黄鯵、はぜ、こち、ぎんぽ、車海老、渡りがに……等。塩浜の先が江戸前物の宝庫でした。塩浜と言えば、江戸幕府を建てたときに、三重から塩の職人が呼ばれてきて塩田法で塩を作っていたそうで塩浜という名前が残っておりますが、漁師ですと網元ですが釜元ということで釜の小屋を持っていた、中小屋さん、元小屋さんという屋号の方が今も残っておられます。

 大師の門前町では旅篭はなく、すべて茶屋と言って料亭が軒を連ねておりました。名物の蛤なべ(蛤を味噌仕立てで食べる)を食べ、はぜの甘露煮を御土産に持ち、川崎宿に泊まり、帰るのが、当時江戸の男のステータスだったようです。

 昭和38年頃、埋め立てにより漁師や海苔師が陸に上がってしまい、魚介類が捕れなくなってしまいました。ところが最近小柴漁場(金沢八景沖の真水の入り込むところ)で江戸前物が捕れはじめました。

 現在、小柴の物を取り寄せてできる限り江戸前物にこだわって、商いをしております。この御時世、潰さない様にがんばっておりますので宜しくお願い致します。

 本日は、私のつたない話にお耳を傾けていただきありがとうございました。