吉浜 照治(よしはま しょうじ)
大正15年 川崎市中島生まれ。 |
当年76歳市会議員 3期、県会議員 2期、川崎市選挙管理委員 3期12年を歴任。 |
現在、中島八幡神社氏子総代。 |
1 正岡子規
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」といえば誰でもこの俳句の作者は正岡子規であると知っています。そしてこの人物こそが近代日本俳句の先駆者であり、僅か35才で死ぬまでの間に1萬八千余の句を残し、その影響力が今日まで及んでいる人物はありません。しかも35年の生涯のうち最後の9年間はカリエス病という重症のため、日常生活はすべて病床に在ったということであります。従って子規は自らのことを「病床六尺の人生」と云っています。
その病床に在りながらの子規を慕って多くの人物が集って来ています。
高浜虚子 |
たかはまきょし |
(松山・俳人 子規門の代表格) |
河東碧梧桐 |
かわひがしへきごどう |
(松山・俳人 虚子と共に子規門の双璧) |
内藤鳴雪 |
ないとうめいせつ |
(松山・俳人 漢詩人) |
佐藤紅緑 |
さとうこうろく |
(俳人小説家)あゝ玉杯に花受けて |
夏目漱石 |
なつめそうせき |
(小説家)我が輩は猫である。 |
長塚 節 |
ながつかたかし |
(小説家)土 |
伊藤左千夫 |
いとうさちお |
(小説家・歌人) |
森 鴎外 |
もりおうがい |
(小説家)軍医總監 |
寒川鼠骨 |
さむかわそこつ |
(俳人小説家)子規庵復興の人 |
秋山實之 |
あきやまさねゆき |
(東郷連合艦隊作戦参謀) |
以上のほか、明治中期から大正昭和にかけて活躍する多くの文人が台東区根岸の子規の住いである通稱子規庵に集まり、子規をかこんで談論風発であったといわれております。
しかし、残念なことに子規は1902年(明治35年)9月19日、河東夫妻らに見とられ乍ら35才の生涯を終りました。
本名 正岡常規つねのり、通稱 升のぼる、伊予(愛媛県)松山市の生れです。
平成14年、子規の野球殿堂入りが発表され多くの人々を驚かせました。これは明治初期アメリカから日本にベースボールが輸入され、これに熱中し、ベースボールを「野球」と呼ぶなど功績があったためです。
2.子規と川崎
正岡子規が川崎を句に詠んでいたことは今日まであまり知られておりませんでした。
平成7年4月、川崎図書館開館記念誌「川崎区の史話」が発刊され、その中に子規の句として「多摩川を汽車で通るや梨の花」が紹介され、しかもこの句は当時の中島村、現在の川崎区中島町附近の梨の花を詠んだものであると発表しています。更に、このほかにも子規は10句ほど川崎を詠んでいました。
中島村は私の父祖の地、私の生まれ育ち、いま生きている所であります。
子規は明治25年頃、数回に亘り、川崎大師詣を楽しんだようで、その行き帰りに、春は五辨の白い梨の花畑、秋は豊かな梨の實を賞味したであろうと想像されます。ですから川崎詠句は次のように梨の句が多いようです。
行く秋に梨並べたる在所ざいしょ哉 |
川崎や畠は梨の帰り花 |
川崎や梨を食い居る旅の人 |
川崎や小店々々の梨の山 |
すず成りの小梨に村の曇り哉 |
麥荒れて梨の花咲く畠哉 |
落第の人を送るや梨の花 |
灯(ひ)の映(うつ)る閨(ねや)の小窓や梨の花 |
駅古(えきふ)りて夜(よ)長(なが)の鶏(とり)のまばら也 |
このほかに、明治27年の同じ頃の句として川崎大師様を詠んでいます。
朝霧(あさぎり)の雫(しずく)するなり大師堂 |
くさび打つ音の高さよ霧(きり)の中 |
菊咲くや大師の堂の普請小屋(ふしんごや) |
3.句碑の建立
子規が私達の故郷ふるさとを俳句に詠んでくれた「多摩川を汽車で通るや梨の花」の句は、明治中期の川崎区の姿をさまざまな型で教えてくれております。
この句が生まれた頃は川崎で長十郎梨が生れた頃です。多くの農家はこぞって梨の生産に心がけ、潤うるおっていました。春は大師参道のまわりは白い梨の花盛りであったようです。大師詣の道は、まだ大師電気鉄道は開通しておりません。子規は汽車で多摩川を渡り、川崎ステーション(現JR川崎駅)に下車し、駅前からダルマ屋の人力車に乗り、旧東海道を六郷橋に至り、右折して久根崎・医王寺・そしてその名も美しい花見橋を経て大師山門に向ったことでしょう。その途中小高い所から春は白い梨の花畑、秋は梨の稔りを眺めたことであろうかと想像されます。
(東日本初の大師電気鉄道は明治32年に開通しました)。
このような素晴らしい俳句をこのまま放置しておくことは、とてももったいない話です。この子規の句を永く後世に伝え傳え、俳句愛好の方々のみならず、子供達の未来に文学への夢をはぐくみ、この地から将来、子規やその友人達に肩を並べ得る人材の生まれ出ることを期待して、その没後100年を記念して、ここ中島の地に句碑を建てます。
建立2002年9月19日 除幕式場所 中島八幡神社境内(川崎区中島町)碑型 青御影石、平角柱、高さ2メートル揮毫 浅野弘子氏、中島出身。書家。院展会友主催 中島八幡神社氏子会・中島町町内会費用 約60万円…主催者各半額負担工事 水口石材店(川崎区渡田向町)解説 解説板設置
4.川崎の句碑
川崎という町は永い間「文化不毛の地」と云われてきました。私達川崎市民にとっては、とても残念なことでした。しかし今回の子規の句碑建立に当り、市内の他の句碑を参考に拝見して歩いてみますと、結構多くの句碑を発見することができました。そして、それは建碑の貴重な参考になりました。
△天地(あめつち)のはじめの畑(はた)を誰(た)が打(う)ちし、佐藤紅緑 |
多摩区登戸 丸山教庭園 |
△句碑の句の中より雲雀(ひばり)鳴きいでよ |
佐藤惣之助・登戸 丸山教庭園 |
△麥の穂をたよりにつかむ別れかな |
松尾芭蕉・川崎区八丁畷 |
△秋十(あきと)とせ却(かえ)つて江戸をさす故こ郷きょう |
松尾芭蕉・川崎区 稲毛神社 |
△ちちははのしきりに恋し雉きじの声 |
松尾芭蕉・川崎区 大師平間寺 |
△金色(こんじき)の涼(すず)しき法(のり)の光(ひかり)かな |
高浜虚子・川崎区 大師平間寺 |
△世(よ)を旅(たび)に代(しろ)かく小田(おだ)の行きもどり |
松尾芭蕉・高津区 宗そう隆りゅう寺じ |
これらのほかにも多くの句碑歌碑を見ることができます。やはり松尾芭蕉の句碑がとても多いことがわかります。
私達がこれから建てようとする子規の句碑は見つけることができませんでした。
従いまして、この際は佐藤 紅緑(こうろく)、高浜 虚子(きょし)、佐藤 惣之(助そうのすけ)らの中心的人物である正岡子規を市民の方々に広く知って頂くためにも、その句碑を建てることは、単に詠句の地としての理由のみならず最も適切であろうと考えております。
5.双柱の句碑
その昔から建てられている句碑の多くは、自然石であります。そこに難しい文字が刻まれております。子供達は勿論平凡な私達大人でも讀むのに苦労しています。写真を撮っても仲々うまく写りません。解説板が有ると安心致します。此の度の子規句碑建立に当っては
△誰でも讀める文字で △見やすい高さで△見やすい場所へ △写真が撮れる明るい碑面で △地元関係者の揮毫で △解説板を設置し △解説文を作り △19日には暇な人が来たら縁台でお茶が飲めるようにしたいと考えています。
こんな考え方から、碑型は多摩区登戸・丸山教本部に在る佐藤紅緑の角柱型の碑を参考にさせて頂き、平角柱とし、川崎の北に紅緑の角柱碑、南に子規の角柱碑とし、双柱の句碑と呼んで頂ければ望外と考えております。建立場所は神社境内の奥深く建立せず、神社入口の十字路の一角に建てます。
1日30人のひとが目にとめて1年で約1万人、10年で10万人、100年で延百万人の人々が見ることになります。考えただけで楽しくなります。誰が百年後を見ることでしょう。その頃、中島八幡神社は巨大樹林の中に在り、戦前昭和初期の鎮守の森に帰っていることでしょう。句碑は今回の子規の1基ではなく多くの句碑が境内をとりまいていることでしょう。
(追記)2002年9月19日、正岡子規没後100年の記念の日に除幕式が盛大に行なわれました。川崎ロータリークラブもご招待をいただき参列してまいりました。 |